⬜︎型破りと形無し⬜︎ …考えることと学ぶこと
「守破離」という言葉を聞いたことがありますでしょうか?
もとは千利休の訓をまとめた『利休道歌』にある、「規矩作法 守り尽くして破るとも離るるとても本を忘るな」を引用したものです。
修行に際して、まずは師匠から教わった型を徹底的に「守る」つまり「真似る」ところから修業が始まる。
師匠の教えに従って修業・鍛錬を積み、その型を身につけた者は、師匠の型はもちろん他流派の型なども含めそれらと自分とを照らし合わせて研究することにより、自分に合ったより良いと思われる型を模索し試すことで既存の型を「破る」つまり「アレンジする」ことができるようになる。
さらに鍛錬・修業を重ね、かつて教わった師匠の型と自分自身で見出した型の双方に精通しその上に立脚した個人は、自分自身とその技についてよく理解しているため、既存の型に囚われることなく、言わば型から「離れ」て自在となることができる。
このようにして新たな流派が生まれ、「自分流」と言えるものが出来上がるわけです。
「本を忘るな」とあるとおり、基本の型を会得しないままにいきなり個性や独創性を求めるのはいわゆる「形無し」ということになります。
禅宗の僧侶であり、教員でもあった、無着成恭は「型がある人間が型を破ると『型破り』、型がない人間が型を破ったら『形無し』」と語っており、これは歌舞伎の十八代目中村勘三郎の座右の銘「型があるから型破り、型が無ければ形無し」としても知られています。
一般的な職場でも、まず守るべき「型」はその精神や意図から理解する事で真似、盗み、アレンジして型破りな自己流を目指したものです。
ただ問題は型を型として真似ても、師匠につき、あるいは勉強して、その型の精神や思考を真似ることをしないと、型の本質を真似たことにはならないということです。
社内の挨拶やルール1つにしても、そこに会社のどんな意図があるんだろう?
そんな疑問を持って調べてみるとそこに込められた思考や精神にたどり着くことが出来る。
最近ではマニュアルに目を通す事で「型」をモノにしたと勘違いして、ろくに勉強もせずに型破りを目指して、結果的に無知無能をさらけ出してしまう人も多いのではないでしょうか?
下手をすればマニュアルさえ熟読せず、聞きかじったカッコいい言葉をつなぎ合わせて薄っぺらな型破りもどきをにわかこしらえして、すぐに化けの皮がはげてばかにされる。
まさに形無しです。